道路の昔と今 / 神奈川県 横浜市鶴見区
大黒JCTの昔と今
海に生まれた島に、二つの大橋と大きなループが集まるまで
大黒JCTの大きな輪を、空から見たことがありますか。首都高湾岸線と神奈川5号大黒線が出会うこの場所には、道路がないどころか、島そのものがなかった時代があります。海面、埋立地、建設中のループ、橋へ続く道路。六枚の航空写真を並べると、横浜港の一角が陸上交通の結び目に育つ過程が見えてきます。
1961〜1969年ごろ
輪のあった場所を探しても、海ばかり

最初の白黒写真には、広い海面と、白く細長い船影が写っています。後の写真で大きなループが現れるあたりを見ても、道路を載せる陸地がありません。岸に沿って道を造るだけでは、この場所にJCTは生まれなかったことが分かります。
横浜市によると、大黒ふ頭の埋立てと整備は1971年から1990年にかけて進められました。海上貨物の増加やコンテナ化に応えるための事業です。写真の海は、これからふ頭と道路の両方を受け入れることになります。[1]
1974〜1978年ごろ
海の上に、島の輪郭ができる

次の写真では、海だった場所に角張った陸地が現れます。直線的な護岸の内側には、明るい造成地と水面のように見える部分が混在しています。島の外形ができても、すべての区画が同じ状態で使えるわけではなかった様子が伝わります。
陸側から延びる橋と、島の中を通る直線の道も見えます。一方、後に目印になる大きな輪はまだありません。ここではまず、港として使う土地と、そこへ出入りする経路が形になっています。建物の増え方だけでなく、海と陸の境界を比べたい一枚です。
1987〜1990年ごろ
造成地に、幾重ものカーブが現れる

島の中に屋根の大きな建物が並び、その間に丸い道路が姿を現しました。輪の外側をさらに別のカーブが包み、直線道路へ接続しています。1970年代の写真にあった広い空き地が、道路と港の施設で細かく分かれていく変化が鮮明です。
横浜ベイブリッジと神奈川5号大黒線は1989年9月27日に開通しました。湾岸線の本牧側と、生麦JCTへ向かう道が結ばれた節目です。写真の収録年代はこの開通をまたぐため、道路の外形だけで一枚全体を「開通後」とは扱っていません。[2]
1992年
ベイブリッジ側がつながった後の島

1992年の写真では、ループから左下へ向かう橋の道路をたどれます。中央の円形の空間ははっきり残り、その周囲で複数の経路が分かれています。島の中の建物や岸壁が、道路の大きさを測る物差しになります。
ただし、この段階で湾岸線が羽田方面まで一本につながっていたわけではありません。大黒JCTから空港中央までの開通は1994年12月21日。完成した部分のそばで、次の区間の整備が続いていた時期です。[2]
1997年
湾岸線が、島の先へ伸びていく

1997年になると、島を斜めに抜ける道路の連続した形が、いっそう分かりやすくなります。輪のところで曲がる経路と、その脇を通り抜ける経路を見分けられます。JCTが港への入口であると同時に、湾岸を移動する途中の分岐でもある姿です。
この先の大黒ふ頭と扇島を結ぶのが鶴見つばさ橋です。首都高の資料では、逆Y字の主塔と道路中央部をケーブルで結ぶ構造が紹介されています。ベイブリッジと同じ湾岸線の橋でも、塔とケーブルの配置は異なります。[4]
現在につながる姿
道路の輪を、港の施設が取り囲む

最後の写真でも、JCTの大きな輪は島の目印です。周りには大きな屋根と広い舗装面が並び、岸壁に沿って区画が整っています。最初の海の写真と見比べると、変わったのは道路だけでなく、道路が支える土地そのものだったことに気づきます。
横浜市は、大黒ふ頭で完成自動車や大型建設機械の取扱いに対応する機能転換が進められていると説明しています。輪の造形に目を奪われる場所ですが、その外側には船と陸上輸送を結ぶ港の日常があります。[1]
島の輪郭を先に確かめ、次に橋、最後に中央のループへと目を移すと、埋立てと道路建設が重なる順序をたどれます。
- 場所
- 神奈川県横浜市鶴見区大黒ふ頭
- 交わる道路
- 首都高湾岸線/神奈川5号大黒線
- 大きな節目
- 1989年9月27日 ベイブリッジ・大黒線開通/1994年12月21日 空港中央方面へ接続
出典・参考資料(航空写真は切り出し・縮小。補描・生成なし)
